アマゾン シャーマニズム映画 〜ダヴィッド パッカン監督との出会い〜

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    先日日曜日に、隣町のマルシェの帰りにみつけた窓辺の花。紫陽花の色も、とてもきれいでほれぼれ。


    ここの所、天候が不純気味。明け方になにかミステリアスななにかの予兆のような暴風が吹いていたり、今朝はものすごい轟音に滝の中にでもいるのかと目を覚ますと、なんとヒョウが(ヒョウは時々振る、一年に5回くらい、3分かご5分ほど、すぐに雨に変わる。直径8ミリから1センチの氷の玉)、それも尋常ではない量がどさどさと何事かという勢いで落ちてきて道は真っ白に。雨がまざっておらず、危険でとても窓を開けれない状態が15分以上もつづき、窓ガラスが心配になるほど。一時間後に容赦なく第二弾がきて、雷はなるし、救急車のサイレンはなるし、こわいくらいだった。

    朝十時、何事もなかったように太陽が 輝いている。けれど車にはまだ氷の粒、ゼラニウムの花が道に散乱。むざんにも、つぼみも茎から折れている。

    最近、この街の友人はみな具合が悪くて、出てこない。風邪だと言う。家族全員、咳き込んだり、喉が痛かったり、目がしょぼしょぼして花粉アレルギーのような症状にもにて、疲れやすい。なんだかわからないけれど、やる気が出ない。など。私もじつはずっと昔の症状が、突然あらわれてしつこく、あら?克服していないのね、とショック。
    気のせいかもしれないけれど、急に年をとってしまったようにみえる錯覚がある。

    そんななかで、仕事関係の友人が家に来る事が多かったけれど、私も許容範囲が狭まったと思う。
    まず、単なるショービジネスは過去の世界になりつつあるけれど、騒ぎ好きはもう、論外。世界の状況のこの期に及んで、お酒をのんで食べて騒ぎ、物事を深く考えることを回避したい弱さのある人は最近、お引き取りの言い渡しをした。そのような意味不明のことで接待し、翌日まで疲れていたくない。

    近所の同僚の家を訪問し、彼女の医療の書類を一緒にみたり、話したり、ちょっとお味噌汁のおすそわけをしたり教えてあげたりしている。病気にならないような素材と料理は、これからもっとここに書いてゆきたいとおもうし、いまでは世界中の人が知るといい。

    ここ数日、映画監督が滞在しに来ていた。次回作を、夫とともに作るらしい。過去にも作っている、友人。
    彼の前回のドキュメンタリーフィルムをみた。

    なかなかよいフィルムだった。

    シャーマニズムとの出会い 
    Rencontre Chamanique -de la France à Amazonie-

    というタイトル。約一時間。

    癌をいいわたされたフランスの男性が、アマゾンの奥地にいるシャーマンの話を聞いて、連絡を取り、おいでと呼ばれて、会いに行く。アマゾンのジャングルをあるき、薬草をさがし、斧で切り、その汁をその場でのむ、薬草をたずさえて家にもどり、エネルギーをこめて、彼のための薬をつくる。
    大地の上で、儀式をおこなう。強烈な吐き気を催して、良くない物を吐き出す苦しみ。解毒、浄化。
    そんな日々をくりかえし、なんと10日後、君は治った、おしまいだ、おわかれだといわれ、帰ってくる、という話。彼は、南仏で、いまは農家になって家族とともに、ささやかに、平穏にくらしている。

    「大地に触れる事は、癒すことを助けている。大地に降れ、木をうえ、収穫し、余れば売り。森の不要な枝を払いにゆき、それを燃して暖をとる。こういう生活なくしては、この健康の維持はむずかしい。」

    実話であり、経験者が主演して、実際に会いにいった南米のシャーマンをもう一度たずねて、フィルムに収めている。蛇や不可解な動物、どこへ行ってもふかい泥の道のなかでの撮影は、困難をきわめ、また、シャーマンとの間の距離感も、なかなか難しかった。シャーマンというのは、撮影をうけいれることは、稀だと思う。それだけでも、貴重だろう。シャーマンである、リカルドの叡智溢れる言葉も、心に響く。

    このような映画が日本に紹介されてほしい、とおもう。ダヴィトには、シナリオを送ってもらうことに。
    監督のダヴィットとは今回仲良しになり、いろいろ話して、彼自身もある時期に人生の転機があり、世界中を旅して、シャーマニズムに触れて体験きた。もちろん、日本のレイキもおこなうし、彼自身興味深い人物。
    お寿司が好きだというので、腕をふるった。お友達が贈ってくれている抹茶をのませてあげたら、欧米で唯一、本当に味わって飲んでいて、大好きだ、と言っていたので、とても嬉しかった。(大抵の人は、お砂糖を入れてもいいですか?という。)仕事のためなので限られた時間の中で愉しい時間もすごし、次回の撮影でも、ヘルプをさせてもらうかもしれない。
    彼はいま南仏へ帰る電車の中。


    さて、私は今日から、別のいくつかの事で、しばらく家を留守にします。

    その間、なにもおこらずに、世界が平和でありますように。

    忙しくて、いろいろお返事がまにあってなくてごめんなさい。





    ドービルのマリナにて 秋の空。


    ウジェーヌ ブーダン美術館へ (後編)

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      トゥルヴィルの浜辺 1869

      多くの画家の経歴がその画集のなかに書かれる中で、ブーダンの経歴は彼のおおきな画集でも省略されていることが多い。「幼少の頃の彼はとくに特筆すべきことがない。」「これといった絵画の教育を受けていない。」「漁師の息子、必要にかられて点々としてきたといってもよい。」というような文章も見かけたような気がする。
      このブーダンが、印象派の種をまいた重要な先駆者であることは、彼の生い立ちを知れば知るほど驚きや親しみ、敬意を感じずにはいられない。ここではあえて、あまり知られていない経歴の一部をご紹介したいと思います。


      ブーダンは1824年の夏、四人兄弟の二人目として、オンフルールに生まれました。彼の父は漁師で、両親はオンフルールで結婚しました。当時のオンフルールはトゥルヴィルと同じように、鄙びた漁村でした。ただ、街には活気がありました。「木材の取り引きをスカンディナヴィアと行なおう、石炭、フルーツや卵の商いを英国と行なって産業を発展させよう」と精力的でした。一方で街にはまずしい家々も並び、ブーダン一家もつつましい暮らしをしていました。ブーダンはときおり漁師である父の船にのり、操縦も習いました。それは後の海軍での兵役で役立ちました(当時の兵役義務は七年間でした)。


      トゥルヴィルの浜辺 1865-70

      ブーダンが11歳のとき、両親はセーヌ河口の向い側のもっと大きな街に惹かれてオンフルールを去りました。ルアーブル、大埠頭51番地。この大きな埠頭を前にした壮大な景色は若いブーダンにおおきな影響を与えました。
      「今朝11時、すばらしい蒸気船に乗ったんだ。小一時間の航海の後、船はルアーブルに錨を下ろした。僕は、この素晴らしい航海が一日中続いてくれたらいいのにと想ったんだ。」

      ルアーブルはマルセイユに次いで、フランスで二番目に大きな港です。ブーダンはブルターニュ、ダンケルク(フランドル地方)へ行くのに沿岸航行をしている運輸船をつかいました。海軍の連絡船は、ルアーブルから英国、ベルギー、北欧、イベリア半島、インド、アメリカなどへ定期的にありました。また、ルアーブル、オンフルール、ルーアン、パリへの船が沢山在りました。(まだ鉄道がなかった頃のこの地域の交通網は、すべて船でした。このことは、もしかするとこの地方が北欧からのバイキングの侵略により栄え、彼等は船で川をさかのぼるようにその領地を広げていったこともあるのかもしれません。)
      作家ギュスタヴ フローベールはたびたびルーアン、トゥルーヴィル線(ルアーブル経由)の船をつかいました。
      (フローベールはこのトゥルーヴィルでマダムヴォヴァリーなどの小説を書きました。当時のホテルから名称も風情もかわっていますが、まだそのホテルがあります。これらから繋がるストーリーやトゥルーヴィルのアーティストの面々ついて書きはじめると、長くなり過ぎて本のようになってしまうので控えます。。!)

      一方で1828年当時、画家イザベイ(Isabey)や、ポール ユエ (Paul Huet)らがオンフルールに滞在していました。翌年にはコローもオンフルールに訪れています。その六年後、再びオンフルールに来たユエは、そこでテオドール ルソーに在っています。後のバルビゾンのマスターです。これらの画家たちはそれぞれが、ずっと後になって、ブーダンに大きな影響をあたえることになります。それは、30年もの後のことです。



      トゥルヴィルの浜辺 1865-70

      さてルアーブルで学業をつとめたブーダンは、印刷業や製紙業(画材や文房具もふくむ)につとめます。
      やがて20歳のときに共同でパペテリー(紙や画材、文房具を売るお店のこと)を買い取ります。ここでEugene Isabey, Constant Troyon, Millet, Thomas Couture らに会い、このパペテリ−のショウ ウィンドウに、これら出入りしてゆく画家たちの絵を掲げていました。そしてミレーに彼の初めての絵画の試みを見せます(これはルアーブルの街の一角を描いた、お告げの祈りという絵です)。ミレーからは一貫してよい評価を得られませんでした。ブルジョワの肖像画や静物画、当時のモードであった17世紀オランダ風の風景がを観光のお土産として描く日々、、、ブーダンはそれだけには終わりませんでした。

      1851年、27歳の時、ルアーブル市の奨学金に選ばれ、パリへ三年間の絵画の勉強にゆくことになります。その交換条件はいかにあろう、「毎年ルアーブル市の美術館に一つ、あるいは幾つかの絵画を寄贈する、しかし美術館側がそれにふさわしいと判定した場合において。」とのことでした。
      余談ですがブーダンは三年間で、彼が模写をしていたルーブル美術館作品群から、オランダの画家の作品の模写二枚と、そして彼の大静物画をルアーブルに寄贈します。(この最後の一枚は、受理を拒否されています。)

      パリでの三年間の絵画の勉強の末、たとえコローやルソーに惹かれたとしても、かれは自分の道をみつけていませんでした。「私はかつてないほど困惑した状況に戻っていた。」ブーダンはそう振り返っています。
      さまざまな技巧の修得や古典的な絵の模写を重ねること、さらになにが価値がありなにが劣っているかと評価され続けることは、もともと絵画において消極的な彼を、初心者の当時よりももっと消極的にし、自分自身の絵を描くことから遠ざけたのでしょう。

      〜修得する、教え込むということと、その人のなかにある、その人にしかない才能を見抜いてのばす、ということは、全く異なる〜
      教育によって、才能の芽を摘まれてしまったかのようなブーダン。

      何年か後、モネの父が息子のために奨学金を依頼しましたが、市に拒否されています。ブーダンで痛手にあっているからだということに、疑いの余地がないといわれています。
      一方で、ブーダンのライバルでもあったLhuillerは、華々しくもルア−ブルの公立美術学校の教授になっています。デュフィやその他の画家がその教えをあおいでいます。


      浜辺(トゥルヴィル) 1865-70


      パリからルアーブルに帰ったブーダンは、やがてすぐにオンフルールの郊外、サンシメオンの農場に移り住みます。二年の間、ここのトゥータン(Toutain)おばさんが、この、草原のなかに果樹を植えた藁葺の田舎屋オーベルジュ、泉のあるフルーツの庭や果樹の垣根の、この家に彼を一か月わずか40フランで、食事付きで住まわせます。
      ブーダンは美しい自然の光とモチーフ、そしておそらく安らぎに恵まれました。そして絵を描き続けます。

      ここに、エコール ド サン・シメオン が生まれます。

      彼は年を重ね、おそらく多少ノスタルジックになり、やがて彼自身サンシメオンの小さな伝説となり、画家たちが足しげくサンシメオンに通い、トゥータンおばさんのオーベルジュに泊まります。
      ここに来る多くの画家たちが、彼等の作品やブティックのことを語っていました。一方、パリや社交を遠く離れたブーダンには、これといったものがありませんでした。パリを離れては、絵で成功を収めることはむずかしいことも、また当時のサロン(画家の社交界)にまじらず、田舎屋でおもうのままの絵を書いていては世に出ることは難しいこともブーダンは承知していました。それでも、後に鉄道が轢かれて海辺の社交界となった19世紀のトゥルヴィル、のちに開花するドービルの貴族やお金持ちの浜辺の娯楽の地となってゆくこの地のありさまを、ブーダンが好むことはありませんでした。どちらかと言えば、かれはハーミット(俗世間を離れ暮らす者)でした。
      「私には小銭もなく、収益もない。」「私はなにも成功しなかった。」「大きな落胆とともにこの年を終える」「絵を描くために果物と野菜をいくらか買った、私の最後の小銭で。」、、、サンシメオン当時、失意の中に模索していた頃の彼の言葉です。


      ファーム サン シメオン

      1858年、34歳。ルアーブルのブティックで、地元の人の似顔絵を描いている若い男性に出会い、サン シメオンに来て美しい田舎の風景を一緒に描かないかとブーダンは誘います。
      この若い男性、彼こそが、後のクロード モネでした。(1864年の九月、モネはサンシメオンにやってきます。一年後、トゥータンおばさんはこの農場を永遠に去ることになりました。)

      ブーダンは現在のウジェーヌ ブーダン美術館のある通り、Rue de l'Homme-de-Bois に居を構えることとなります。「家賃は貧しい私にふさわしかった」それは、この家がおそらく「ラ メゾン ハンテー」、お化け屋敷といわれていたからだとも。ブーダンの再出発は、そんなふうに始まりました。

      同年、彼ははじめてサロンに出展します。そして、、、かの詩人、ボードレールがはるばる彼に会いにやってきます。そしてブーダンの時が開花してくるのでした。

      、、、ここから先は一般の解説でみられてきますので、ブログのための執筆はここでおしまいにします。




      この美術館では、すでに有名である彼のトゥルヴィルの浜辺(19世紀の貴婦人たちの浜辺の社交界の様子)の一連の作品の中のいくつかがあります。展示作品はブーダンの作品ばかりと言うわけではなく、むしろ多くのオンフルールの画家達の作品が見られます。モネの描いたオンフルールのサンカテリーナ教会もあります。Hambourgや、Dufyの作品もありますし、サンシメオンにも来たオンフルールのさまざまな画家達の作品もなかなか。この美術館は画家Dubourg、そしてブーダンの協力によって設立されています。


      個人的に非常によかったのは、パステル画による空のエチュード、シリーズです。
      偉大な画家は、さらさらと描いたようなパステル画ですら天才ぶりが垣間見える、そう思わずに入られません。
      このシリーズを、ブーダンはボードレールに非常に遠慮ぎみに見せた(ボードレールの記述より)とか。1859年のことです、ボードレールはブーダンの母親の家を訪ねています。そのときのことや一連のパステル画の空のエチュードの印象(当時、まだ誰の目にも触れていない絵でした)をボードレールは、CURIOSITES ESTHETIQUES にしたためています。その文章は、ミュゼにも掲げてあり、彼らしい詩的な美しい表現です。ここに、ほんの一部だ手早く大まかに訳し、雰囲気をご紹介します。ぜひボールレール原文で味わってください。

      「略、、、 もしも貴方がここを幾度か訪れたことがありこの天候のもたらす美しさをしっているなら、その記憶からブーダンの絵のその正確な表現を理解されるのではないだろうか? その手に隠された伝説、貴方はきっとそれらの絵から季節、時間、そして風を正確に読み取られるだろう。私はけっして誇張などしていない。私は見たのだ。これらすべての雲、幻想的に漂う雲とその光、その闇の混沌、その強烈なみずみずしい青とほのかなバラ色、それに加えられたあらゆる色、深淵に燃え盛る炎、蒼穹の漆黒あるいは菫色の繻子、しわになり、巻かれ、引き裂かれ、その哀悼の水平線あるいは喜びに溶け滴る金属、、、それらすべての深遠さ、、、、、略」
      (CURIOSITES ESTHETIQUES CHAELES BAUDELAIRE, Salon de 1859 VII, le Paysage)
      *この翻訳の転載を堅く禁じます。

      感性豊かな詩人ボードレールの溢れる泉のような滑らかで豊かな言葉はすべて、ブーダンの空のエチュードからインスパイアーされ溢れ出たものなのでしょう。



      空の習作 (シリーズ 1854-59)
      このシリーズは小さいですけれど、オンフルールブーダン美術館の必見だとおもいます。


      1861年、37歳で妻マリーアンに出会い、二年後に結婚しました。


      晩年の彼は、雲や空(と海)の絵を多く描くように思います。それはあるいは、ボードレールの言葉とフュージョンするように描かれているかの如く、あるいは自分が生まれた土地の、そして父親と共に漁や航海にでた海や、様々な思いで見上げた空に、この景色の中に一生を終えてゆく事を心に決めたかのように。


      ドーヴィルの浜辺 晩年1885-95







      ドーヴィルの浜辺 晩年1885-95


      参考)
      BOUDIN ET LA NORMANDIE Edition HERSCHER
      E.BOUDIN Honfleur 1992 Edition ANTHESE
      MUSEE EUGENE BOUDIN
      MUSEE DE TROUVILLE
      BIBLIOTHEQUE MUNICIPALE Trouville-sur-Mer の協力

      この文章の転載、使用を堅く禁じます。

      ★おまけ★

      ブーダンが描いたベニス もなかなかですね。。

      メンタリズムカンファレンス 明日のTV放映 ご報告と予告 

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        ミュゼ(美術館)の記事の途中ですが、、、失礼します。

        お知らせ (フランス在住の方向け)です。


        あす土曜日、TF1 18:45pm の「50min inside」で、エリックのサントロペ近郊での一昨日のカンファレンスの模様(Le Mentalisme avec Erick Fearson)と、インタヴューやインタヴュー現場での周囲の人を使ったアドリブのプチ パフォーマンスが放映される予定だそうです。
        (とここでお伝えして、御覧になれる方は一体何人くらいなのか、、、検討つかず、ですが!)

        今回のサントロペ近郊(正確にはコゴランという街)の講演と翌日のサイキックタロットリーディングには、パリやモンペリエなども含め遠くから泊まり掛けで足を運んでくださった方々も多く、本人ともどもとても嬉しく思っています。ありがとうございました。
        二日間中5分の休憩が午後に一度と夜に一度ずつ以外は本当に一杯だったようで(恒例、昼食なし)、今回の成功をとても嬉しくおもっています。http://www.association-paralleles.com/FR/index.php/conferences/erick-fearson-le-mentaliste-2/

        私は同行しない時でも一日の終わりに電話で一日をふりかえって現地の様子の話をするのですが、毎回のことですが今回もそれは朝の3時から4時でした。(同行しても朝の五時半に夕食終了もあります、夕食開始が朝3時だったりするので。楽しくともきわめて不健康です。)今回はもともと一杯のプログラムの上に不意にパリから駆け付けた取材や、他のイベント主催や、以前ショートフィルムをとった監督などともお話があったようで、朝起きてから寝る直前まで本当にノンストップのようでした。


        気温は当地は最低で40度、ときおり温度計は日向で46度をさしているという真夏日が続いていて、エリックはちょっとぜい肉がとれてほっそり、日に焼けて、戦いの後の様子で戻り、ノルマンディーの涼しさを喜んでいました。(ノルマンディーは20〜25度の秋晴れでした。)

        今回についで九月末から十月初めにかけては、パリ近郊でサロン ド ヴォワイヤンス (Salon de Voyance) があり、特別ゲストで今回と同じ内容のメンタリズムのカンファレンスが期間中二度ある予定です。
        期間中は他に、サイキックタロットリーディングの時間が毎日設けられています。このサロンの予告のウェブサイトがまだみつからないのですが、街の名はSavigny sur Orgeで九月三十日から十月二日までです。(ご興味をもっていただいた方、カンファレンスは30日と2日です。)
        詳細をご希望の方は、あとでプロフィールにEメールをのせますのでお問い合わせ下さい。

                            ★

        さて、余談ですが、今回の主催者の方が最終日の夜に、現地付近で「あること」で有名な公園へエリックをつれてゆき、なにか感じるかと彼をテストしたそうです。
        なんなのか、ときいても、なにもこたえず、とくかく感じたことを言ってくれとのこと。
        それでははーん、と思った彼は、感じてみて、そして、
        「ここには戦時中にドイツ人がたくさん人を殺して、沢山の人がここで亡くなっている。」
        というと、主催者のチームは、さすがだ、確かにここにはたくさんのユダヤ人がドイツ人に虐殺されて大勢埋められている場所なのだ、ゴーストがでると噂されて、私たちもとても恐れている場所なのだ、といっていたそう。
        彼は、ここはそんなにたいした(強い)エネルギーではないよ、もっと強烈なエネルギーのところを沢山知っているよ、といって安心させて(?)来たのだそう。

        あすのテレビ、TF1のプチパフォーマンスでは、周囲の人々のボディーランゲージを観察し、彼等の性格、趣味などを当ててゆき、スタッフは100パーセントの正解率に参りました、といったそうです。
        このスタッフらも、前夜にはエリックに別の事をするよう依頼しておいて彼にそちらに準備させ、収録の直前に「やっぱり変更しよう」といって、まったく別のことをするよう依頼してきたそう。いろいろ疑ってテストしているのでしょうか。
        重要な一日の朝に飛び入りで来た取材班のさまざまな要望にストレスを感じた彼だったのですが、それでも正解し満足してもらったそうですが、サイキックタロットリーディングは沢山のエネルギーを使うので、8時間ノンストップで十何人もそれができるだけでも稀で(コネクトするヒーリングと同じく)私を含めそれを判る人はそのエネルギーにたまげて心配もするのですが。
        兵士のように帰ってきました。

        今回片道400キロを運転して一泊平均300ユーロと言うこの地域のホテルに泊まり、カンファレンスと翌日のタロットをうけてくださったある男性は、リーディングの最中に涙をながされていたそうです。それは、あまりにも彼の状況や感情、過去、問題、すべてが理解されておもわずの涙であったのだそうです。。

        = 今回は私事のおしらせが、ブーダン美術館の記事の最中に入ってしまいました. =

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